同じ学校の卒業生であるという意識が同窓会というはっきりしたかたちになるまで、揺藍期といってよいかなりの期間があった。昭和33年の創立70周年から昭和43年の創立80周年頃までのほぼ10年間がこの期間に該当すると考えられる。これ以前においては戦後の学制改革や学校火災の復旧など課題が山積してたので、同窓会活動について考える余裕はなかったといえる。
しかし緊急を要する火災復興の後援活動が同窓会活動の発端となって、その後の創立70周年記念事業の校舎増築における同窓会の後援活動に繋がっていくのである。この困難な時期に同窓会長として重責を担ったのが初代会長中村作右エ門(在任期間 昭和25年〜昭和41年)である。
このように同窓会は母校の後援活動で実を示し、順調にスタートしたといえるが、しかし毎年の定時総会は出席者が少なく、母校の教職員の出席を得ても40名ぐらいであった。そのため出席した会員からの強い要望のもと"同窓会振興研究委員会"をつくり振興策を考えることになった。委員には鳥海良正、旅河孫六、尾形六郎兵衛、大室敏中、三浦昌奐、中村正次郎、大井小次郎、松森秀哉、小林尭、瀬川俊一の10名が委嘱された。
この研究会では本会の運営を如何にするかということと、最重要行事である定時総会を如何に改善するかの二点に分けて検討された。
昭和30年代から40年代のはじめにかけては通信制と定時制にかかる事業が同窓会との関わりの中で進められた。現在も使用されている校門わきの通信棟はその2階分までは昭和33年の創立70周年記念事業の一端として進められ、昭和38年に竣工したものであるが、その2階の一室は斉藤宗雄記念館になっている。この通信棟の校舎には昭和43年に創業80周年記念事業として3階が増築され、昭和59年まで学校図書館として使用された。定時制に関わるものとしては、70周年記念事業として行われたグランドの照明設備工事があり、定時制教育の充実がはかられた。
この時代においては同窓会と学校は判然と区別されておらず、学校の業務の中に同窓会の仕事が含まれていてもそれは当然のこととして受け入れられていた。いわば同窓会の事務局は学校の業務のひとつであり、在校生からも協力を得てその仕事を進めていた。その好例として同窓会名簿は昭和34年の創立70周年以前にも佐藤義三郎先生がこつこつと手書きでつくられたものが存在していたが、これをもとに在校生が書く町内毎に同窓生の動向を調べて廻り、創立70周年を機に発刊された新しい同窓会名簿の作成に一役買ったことなどがあげられる。
この名簿の作成をはじめとして母校の先生方の学校と卒業生にかける愛情と情熱は同窓会発展の原動力となった。ことに佐藤義三郎先生と門野文雄先生の労に負うところが誠に大きいといわねばならない。(つづく)
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